■略歴
明治36年、剣豪伊藤一刀斎の血脈として生まれる。父浅次郎は大阪船場で地金商を営んでいた。その関係から子供時代を大阪で過ごし市岡中学へと進んだ彦造は、やがて父の意思で上京し、東京朝日新聞社に給仕兼見習いとして入社する。右田年英のもとで絵を学び、大正9年、17歳のときには早くも「講談倶楽部」にその口絵が掲載される。日本画を本格的に学びはじめるのは、結核をわずらって大阪に戻り、京都の橋本閑雪に師事してからである。

大正14年、大阪朝日新聞の「黎明」の挿絵で、はじめて新聞紙上に登場する。行友李風作「修羅八荒」の挿絵では、原作を助けて映画化されるほどの大評判をよんだ。同じ年、いわゆる華宵事件が起き、講談社は高畠華宵の後釜として彦造に白羽の矢をたてる。彦造はその期待に応えて、「少年倶楽部」「少女倶楽部」からやがて大人雑誌の「キング」「講談倶楽部」「富士」へと活躍の場を広げ、とくに昭和2年から4年にかけての「万花地獄」(吉川英治原作)の挿絵は、満天下をわかせた大仕事であった。これが吉川英治とのコンビのはじめである。

昭和6年ごろ、一時出版界から身をひいて肉筆絹本画の制作に専念し、昭和8年には「大日本彩管報国党」を結成、尊皇、尚武、忠孝の精神を基底とする歴史画を多く描いた。

昭和13年、35歳のとき心機一転して東京へ移る。この前後からふたたび吉川英治作の「天兵童子」、「魔粧仏身」にその健筆をふるう。陸軍大将荒木貞夫との親交は、彦造が神武天皇の画幅を贈ったことからはじまり、その秘書役を果たすようになる。

戦後は「冒険活劇文庫」のちの「少年画報」、ついで大人雑誌に復活登場し、昭和27年から十年余は小学館の学年雑誌に、また全集の挿絵に佳品を残す。 挿絵界最強の剣豪にして、日本最後の武士 伊藤彦造